「EVA’s History」
「大人っぽい子ども」時代、繊細さを持ちながら完璧を目ざした時代…。
EVA’s History…いまの「わたし」ができるまで、をまとめました。
◆小学生時代
【大人らしい子ども】
私は幼少期から、新潟ののどかな集落に住んでいました。
小学生のころ、両親が営んでいた飲食店をたたみ、両親の実家のある福島に引っ越すことになります。
私は共働き家庭の中で育ったため、両親と過ごす時間はあまりなかったと記憶しています。
さらに、弟が生まれてからは、愛情の主軸が彼に移った(ように感じた)ことも重なり、どこかにさみしさ(孤独)を抱いて過ごしてきました。
【心に深い傷を負う「捨て子」経験】
小学校3年生のころに、私は「捨て子」経験をしました。
住んでいた家が手狭ということで、私は数か月の間、隣に住む大叔母の家で暮らします。
母としては、「隣だからいつでも会えるし、部屋を広々と使える」という感覚だったのでしょう。
とはいえ、完全別居生活です。私は「家を追い出され、家族に捨てられた」という気持ちに苛まれました。
「私は必要のない存在」…この捨て子経験は、私の心に深い傷を残しました。
愛されるためには、私が優等生であることが必要。
親の役に立たなければ、きちんとしていなければ捨てられてしまう、という不安が根付きました。
私は大人らしい子どもだったのかもしれません。
◆中学時代
【HSPとつきあいながら】
小学校中学年のころから、不登校になりました。
今でいうHSP※の傾向があったと思います。
学校での人づきあいは楽しいのですが、自分の中で情報処理が追いつかず、家に帰るとどっと疲れてしまいました。
学校に行きたい、行かなければと思うのに、行けない。今日も行けなかったという、苦しい状態が続きました。
※HSP…Highly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)の略。人より繊細な気質を持って生まれた人のこと。学校や職場で気疲れしやすい傾向がある。
◆高校時代~母の死、親族とのトラブル
【大人の世界を垣間見て】
私が高校生になったときに、母が乳がんに罹り、突然の余命宣告を受けました。母の看護をしながら、親族間の土地をめぐるトラブルにも直面します。
大人の闇の世界を垣間見て、少なからず心身にストレスを抱えることに。
母は懸命に病気と闘ってきましたが、私が18歳のときに他界しました。
母の死後、跡取りのいない大叔父夫妻と養子縁組を結び、私は「瓶子(へいし)」と苗字を改めます。
苗字が変わったことは、私の精神面に大きな影響を与えました。
母を亡くしたショックもあり、私は高校を休学します。
心療内科を受診しながら、通信制の学校に編入し、無事卒業することができました。
◆就職~声優学院とアニメ制作会社との出会い~
【やりがいと体力とのバランス】
「ラジオドラマがやりたい」卒業後、私は役者を志します。
ラジオや日本語が好きで、ラジオドラマの役者になりたいと思ったからです。
21歳のときに上京し、都内の声優学院へ入学しました。
そして、スキルアップに努める最中、学院で知りあった人の伝で、アニメ制作会社で働くことに。
昼間は制作会社に勤め、夜は学院に通う…。まさに「二足の草鞋を履く」生活です。
声優学院で3年間学んだあとは、お芝居を続けるために、劇団の養成所に通い始めました。
事務職として入社したアニメ制作会社でしたが、ある事情から、アニメの制作部門へ移るよう声をかけられます。
当時としては新しいCGアニメーションの部署です。
企画の立ち上げから絵を作るなど、アニメ作り全般に一から関われる…。
私は事務職からクリエイティブ職への転身を決意しました。
しばらくは、養成所に通えるように、仕事量も調節してもらいました。
しかし、CGアニメーションが浸透するにつれて、仕事量や責任が増えていきます。
両立が難しいと感じた私は、アニメ制作を選ぶことになりました。
声優と制作、両方を経験した中で、作品全ての工程に関われる、制作という仕事に楽しさを見いだしていたからです。
◆救急搬送①~急性心筋梗塞~
【心が病を呼ぶこと、必要とされること】
仕事は充実していたものの、自己肯定感が低いことは社会人になっても変わりませんでした。
私は組織の一パーツに過ぎず、自分でなくても代わりはいくらでもいると、「私のオリジナリティ」に自信が持てなかったのです。
「完璧にやらないといけない」「認められたい」という思いもあり、私は仕事の上で力を抜くことができませんでした。
アニメ制作職になって30代の頃、私は自律神経失調症、対人恐怖症といったメンタル不全に悩まされました。
ときおり会社を休み、心療内科のお世話になりながらも、何とか克服し、ようやく仕事が落ちついてできるようになった頃のことです。
多忙が重なり、職場での人間関係も影響したのか、ついに体が悲鳴をあげました。
2014年、急性心筋梗塞で倒れ、緊急手術。1ヵ月間の休職を余儀なくされます。
このとき、職場から「あなたが必要である、早く復帰して欲しい」と言われたことで、ふっと気持ちが楽になりました。
この言葉でようやく自分の存在価値に気づいたのです。
自分を認められたことで、今までの苦しみが軽くなったように感じました。
私には、空気をとらえて場をととのえる役割がある。
自分の特性であるHSPをプラスに考えることで、仕事への姿勢が前向きに変わったのです。
◆大プロジェクト達成後~燃え尽き症候群~
体調が回復して、再び私に転機が訪れました。
アニメ制作会社で、担当していた作品の緊急対応に追われます。
苦労しながら、何とか事態を収束させました。
しかし、この対応が、私の心と体に大きな負担をかけていました。
「やった、終わった。」と感じたと同時に、体調を崩します。
医師からは、燃え尽き症候群と診断されました。
強いストレスで、生命を維持する海馬が壊れた結果、食欲が消えてしまったのです。
全くお腹が空かず、食べても味がしないという状態です。
やはり、相当大きな心的負担があったのでしょう。
ストレスから離れるために、会社を離れました。
そして、半年たったところで、会社から進退伺いが来ました。
決断のタイミングが訪れたのです。
これまでもお休みと復帰を繰り返しながら、仕事を続けてきました。
しかし、これ以上続けても同じことを繰り返してしまう…。
会社も復職を願い、私も職場に戻りたかったのですが、心身の回復が追いつきませんでした。
悩んだ結果、私は20年以上お世話になった会社を退職しました。
◆人生を変えた、傾聴との出会い◆
【完璧でなくて良い】
休職中に、今の私のベースになっている、傾聴に出会います。
職場でのコミュニケーションには、「きき方」が大切だと強く感じていました。
復職したときのために、聴く力を上げようと探していたところ、たどり着いたのが傾聴です。
本屋さんで見つけた「はじめての傾聴」を読んで、さらに理解を深めたいと思いました。
私はリアルに教えてくれる場所を探しました。
そして、一般社団法人日本傾聴能力開発協会JKDAの4日集中講座を知り、タイミングよく受講することができたのです。
傾聴を学び、出会った価値観に驚きました。
今までは、「できなかったらダメ」「白か黒か」「勝つか負けるか」の世界で生きてきました。
傾聴では、自分の価値はそのままに、相手の価値を認めるという考えがあります。
勝つか負けるかの世界で生きてきた私にとっては、衝撃の連続でした。
傾聴ともっと早く出会いたかったです。
相手の本音をキャッチして、コミュニケーションがうまく取れていれば、心と体のバランスが保てたと思うからです。
◆救急搬送②~急性大動脈解離~
【今の自分はどうしたい?自分を知る】
会社を辞めて、心的ストレスも落ちついてきた私に、再び試練が訪れます。
2017年、急性大動脈解離を発症し、救急搬送される事態に。
緊急手術の結果、一命を取りとめたものの、手術中に脊髄梗塞を併発し、下半身不随となります。
体が自分の意志で動かないもどかしさを感じながら、私は自分に問いかけました。
「私はどうなりたい?このままでよいの?」
リハビリをしても、元に戻るかもしれないし、戻らないかもしれません。
でも、リハビリをしなければ自分の意志で動けない「大人の赤ちゃん」のままです。
歩けるようになって、自分の足で好きなところへ行きたい。これが私の本心です。
今の私は、これまでの自分が作ったもの。
過去のストレスや食生活、全て自分の行いでできています。
過去は元に戻せません。
今ここにいる自分を認め、この瞬間にできることを考えることから始めよう、そして、新しく私を作っていこうと思うようになりました。
◆現在~おわりに
本心を自分に聞いて、答えを出した私は、懸命にリハビリに励みました。
その甲斐あって、現在は杖を使いながらも、1人で歩けるまでに快復しています。
退院した後、私は「自分を知って楽に生きる」ための学びを深めます。
傾聴のほかにも、カラーセラピー、ハンドケアセラピー、数秘など。
すべてが自分を知って、生きることを楽にするためのツールです。
「波乱万丈」。
子ども時代から振り返ると、私の人生はこの言葉に尽きます。
これからも大きな波があるかもしれません。
でも、私は全て乗り越えてきました。生きている限り、乗り越えられない波はないと思っています。
自分を知って、相手を知って、もっと楽に生きる。
1度切りの私の人生、これからも思いきり味わっていきます。